2013年06月09日
「善界」御礼
日曜日、九皐会にて能「善界」を無事終えました。
先週の自主公演「能まつり」での「井筒」に続いて2週連続のシテでした。
今年前半の大きな山場を終えました。
九皐会の時は、自主公演と違って細々とした雑事はしなくてよいので、能「善界」に集中できます。
ゆっくりとした気持ちで臨むことが出来ました。
最初「次第」の出囃子で登場します。
「井筒」は静かにたおやかに運びますが、「善界」はドッシリと力強く運んでゆきます。
どちらもゆっくりと登場するのですが、歩くイメージ(ハコビの感じ)が全く異なります。
「井筒」終了後、こういった調整をずっとしていました。
前場は、落ち着いて演じることが出来ました。
一か所謡を間違えました。
間違えた瞬間、「あ、間違えた」と気がつきましたが、その後も引きずることなく繋がりました。
余裕が無い時は、一つの間違えから連鎖的にボロボロになってしまう事もよくあります。
私が懸念していたのが、後場です。
8年前は、ここでオラオラになってしまいました。
その時は、派手に見せようと、体を大きく使って演じているうちに、狩衣の大きな袖が絡まって、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。
当時は、まだまだシテの経験も少なく、装束を着た時の体の使い方の具合がつかめていなかったのです。
装束を着ていない時と同じように、キリリと鋭く動こうとして、結果的に空回りしてしまったのでした。
私たちプロの能役者は、能装束を着るのは本番一回きりです。
能装束は高価なものなので、稽古で着ることはまずありません。
普段は、装束を着た状態をイメージして稽古するのです。
したがって、実際に装束を着た経験が少ないと、どうしてもイメージしきれないものです。
能舞台は、経験がモノを言うのです。
今回は8年前の経験を、教訓として取り組みました。
やはり、大きな袖に振り回されることもありましたが、上手く取り扱えた気がします。
「善界」の後場は、特殊な構成です。
「大ベシ」という、極めてゆっくりなリズムの出囃子でドッシリと登場します。
ゆっくりなリズムなのですが、ただゆっくり動くのではありません。
無限の速さを内包してゆっくり動くのです。
野山を駆け巡る、天狗の速さ・勢い。
普通の演劇的手法だと、素早く動くことでその速さを表現します。
能の手法だと、逆に可能な限りゆっくり動くのです。
素早く動けが、速く見えます。当たり前です。
ただ、人間が速く動くスピードには限界があります。つまり、人間が写実的に速く動いても、決して天狗なみの速さは表現出来ないのです。
能は、無限の速さを内に含んでゆっくり動くことで、天狗の速さを表現します。
天狗の速さは、見ている人の心の中でイメージされます。
そういう手法がキチンとはまれば、本当に無限の速さを表現することが出来ます。
人間は、天狗なみに速く動くことは出来ません。
でも、人間の心の中には無限の空間が広がっています。
その広がりの分だけ、人間はイメージを膨らませることが出来るのです。
能の演技は、すべてその発想から成り立っています。
抽象的な能の表現は、そのためなのです。
まあ、そんな具合でゆっくり登場する後場の大天狗ですが、最後までゆっくりした動きだと、やはり消化不良です。
中ほどから、堰を切ったように動き回ります。
突然、写実的な速さを表現するのです。
それまでゆっくり動いていたので、一たび動きが速くなると、その効果はてきめんです。
最初から速く動いているよりも、ずっと速く感じられます。
これも能の表現の素晴らしい所です。
ただ、演じる側からすると、このような急激なスピードの変化はなかなか対応し難いのです。
落ち着いて、細心の注意を払って臨みました。
それなりに、上手くいったように思います。
速くなってからは、型が謡いに遅れがちになります。
8年前はまさにそうでした。
今回は、動き出すきっかけを少しずつ早めにしました。
すると、逆に型の方が早くなってしまいました。
自分の感覚より、体がキレていたようです。
今回、2週連続のシテという余裕のない状態でも、首尾よく演じられたのは収穫でした。
ただ、8年前のような突き抜けた勢いは無かったかもしれません。
良くも悪くも、落ち着いた芸に収まっているかもしれません。
落ち着いた精神状態でもって、突き抜けて勢いよく演じられれば最高なのですけどねえ。
なかなかそこまでは、たどり着きません。