2009年04月24日
「道成寺」後話
「道成寺」まであと2日。もう開き直っています。
当日まで、思うところをいろいろ書こうかと思ったのですが、全くそんな気持ちの余裕はありませんでした。
今、こうして書けるのは、ただの開き直りです。
さて、もう色々書く時間もないので、一つだけほとんどの方が知らないことを書きます。
それは、日高川に飛び込んだ後の話。
能「道成寺」に関しては、それこそありとあらゆる事柄が、様々な書き物や文章としてあらわされています。
能楽研究者や評論家、または能楽師本人らが、色んなことを書いています。
今さら私がとりたてて書くようなものはありません。
ただ、それは日高川に飛び込むまでの話。その後について述べてある文章は後で紹介するある役者さんのものしか見たことがないので、ちょっと書いてみます。
「日高川に飛び込む」とは、能「道成寺」の終曲のところのことです。
能では、「日高の川波深淵に飛んでぞ入りにけり」と、シテは勢い良く揚幕へ飛び込んで終わります。
最後の見せ場です。それまで1時間45分位に渡って体力の限界を超えて演じてきたシテは、最後の力を振り絞って橋がかりを走り抜け、揚幕へ飛び込んでいきます。
飛び込んだ瞬間に揚幕は下ります。その後は、お客様には全く見えません。
力を出し切って、飛び込んだシテ、キチンと着地することはまずありません。
色んな人のシテの飛び込みを、幕の中で見ましたが、ほとんどの人はそこでぶっ倒れます。正月に箱根駅伝なんか見ていると、ゴールしたランナーが、次のランナーにタスキを渡した瞬間、その場に倒れこんだりします。
揚幕に飛び込んだシテは、駅伝ランナーのごとく、力尽きてしまうのです。
しかし、シテは必ずむくりと起き上がります。そして、キチンとした着地の姿勢(能の型で言うところの下居の姿勢)をとります。
何故か?
まだ能は終わってないからです。
舞台の上では地謡はなおも「望み足りぬと験者達は・・・」と歌い続け、ワキは喜びを表す型(ユウケン)を行っています。
まだ能は終わっていない以上、シテは幕の中のお客様に全く見えないところで、なおも演技を続けます。ぶっ倒れたいところなのですが、それは許されません。続いてシテは立ち上がり、ワキの留拍子に合わせてツメ足するまで、全く気を抜きません。
やっと、地謡が最後まで謡いました。さあ能は終わりました。シテはホッとして能面を外します。そして、必ず自分の姿を幕の中、すなわち鏡の間にある大きな鏡に映して、能が終わった様を確認します。
しかし、それで終わりではありません。鏡の前に座って待っています。
誰を?
ワキとワキツレが舞台から橋かかりを通って帰って来るのを待ちます。そして、鏡の間でお互いに挨拶をします。
その後、狂言方の鐘後見が鐘を下ろし、ゆっくりと鏡の間に運んできます。
時間にして5分はゆうにかかります。
シテは、その間もずっと鏡の前で待っています。
そしてやはり、狂言方とお互いに挨拶をします。
その後、鐘後見・囃子方・地謡と、共演者が続々と楽屋に帰ってきます。
共演者は、必ず鏡の間に集結して、1人1人とお互いに挨拶を交わします。
能というのは、一人で演じることは出来ません。
舞台の上に立っている人はもちろん、楽屋で働いている人達全ての力が結集されて一曲の能は成り立ちます。
ですから、終わった後は必ず、お互いに「有難うございました」と、挨拶を交わすのです。
全員と挨拶を交わして、やっと装束を脱ぐことが出来ます。
装束を脱ぐと、真っ先に師匠の元へ挨拶に出向き、その後、各楽屋を挨拶に回ります。
そこでやっと緊張も取れ、お互い労をねぎらいます。
明後日の舞台で、お客様が能を見終わった後、感想を述べながら能楽堂を後にしている時、たぶん私はまだ鏡の間で共演者と挨拶しています。
楽屋の挨拶回りが終わって、「やっと終わった・・・」としみじみと脱いだ装束の片付けをしている頃、たぶんお客様は、千駄ヶ谷の飲み屋でビールの一杯でも飲んでいるころでしょう。
これが能という演劇なのです。
「礼に始まり礼に終わる」
どんなに疲れていても、どんなにしんどくても、礼を欠かすことはありません。
それは全く当り前のことであり、そうするものであると思っているので、何の疑問も不都合もなくそうしています。
とりわけ、特別なこととも思いません。
5年前、歌舞伎座で能と歌舞伎の「道成寺」を見比べるという催しがありました。能「道成寺」を演じたのは、故・観世栄夫師。歌舞伎「京鹿子娘道成寺」を演じたのは、中村勘九郎(現勘三郎)師。
その時のことを、勘三郎さんは、某新聞にこう書いていました。
「それで驚いたのは、観世先生が終わって舞台袖に入るでしょ、面(おもて)を取ってそのまんま正座してるのよ、着替えもせずにね。何事かと思って見てたら、一緒に出ていた1人1人に「ありがとうございました」って手をついてあいさつしているんだよ。歌舞伎では終われば、すぐ楽屋に戻っちゃうじゃないですか。これは客席からでは分からないことだね。礼に始まって礼に終わるじゃないけれど、ああ、ここまでがひとつの作品、芸術なんだなって思った。本当にいいものを見せてもらいました。」
中村勘三郎師は、能「道成寺」は当然何度も見ていますが、楽屋の袖から見たのは初めてだったそうで、驚きとともに、とても良いことを新聞に書いて下さいました。
この記事を読んだ時、私は「能って、素晴らしいなあ」としみじみと思いました。
当日まで、思うところをいろいろ書こうかと思ったのですが、全くそんな気持ちの余裕はありませんでした。
今、こうして書けるのは、ただの開き直りです。
さて、もう色々書く時間もないので、一つだけほとんどの方が知らないことを書きます。
それは、日高川に飛び込んだ後の話。
能「道成寺」に関しては、それこそありとあらゆる事柄が、様々な書き物や文章としてあらわされています。
能楽研究者や評論家、または能楽師本人らが、色んなことを書いています。
今さら私がとりたてて書くようなものはありません。
ただ、それは日高川に飛び込むまでの話。その後について述べてある文章は後で紹介するある役者さんのものしか見たことがないので、ちょっと書いてみます。
「日高川に飛び込む」とは、能「道成寺」の終曲のところのことです。
能では、「日高の川波深淵に飛んでぞ入りにけり」と、シテは勢い良く揚幕へ飛び込んで終わります。
最後の見せ場です。それまで1時間45分位に渡って体力の限界を超えて演じてきたシテは、最後の力を振り絞って橋がかりを走り抜け、揚幕へ飛び込んでいきます。
飛び込んだ瞬間に揚幕は下ります。その後は、お客様には全く見えません。
力を出し切って、飛び込んだシテ、キチンと着地することはまずありません。
色んな人のシテの飛び込みを、幕の中で見ましたが、ほとんどの人はそこでぶっ倒れます。正月に箱根駅伝なんか見ていると、ゴールしたランナーが、次のランナーにタスキを渡した瞬間、その場に倒れこんだりします。
揚幕に飛び込んだシテは、駅伝ランナーのごとく、力尽きてしまうのです。
しかし、シテは必ずむくりと起き上がります。そして、キチンとした着地の姿勢(能の型で言うところの下居の姿勢)をとります。
何故か?
まだ能は終わってないからです。
舞台の上では地謡はなおも「望み足りぬと験者達は・・・」と歌い続け、ワキは喜びを表す型(ユウケン)を行っています。
まだ能は終わっていない以上、シテは幕の中のお客様に全く見えないところで、なおも演技を続けます。ぶっ倒れたいところなのですが、それは許されません。続いてシテは立ち上がり、ワキの留拍子に合わせてツメ足するまで、全く気を抜きません。
やっと、地謡が最後まで謡いました。さあ能は終わりました。シテはホッとして能面を外します。そして、必ず自分の姿を幕の中、すなわち鏡の間にある大きな鏡に映して、能が終わった様を確認します。
しかし、それで終わりではありません。鏡の前に座って待っています。
誰を?
ワキとワキツレが舞台から橋かかりを通って帰って来るのを待ちます。そして、鏡の間でお互いに挨拶をします。
その後、狂言方の鐘後見が鐘を下ろし、ゆっくりと鏡の間に運んできます。
時間にして5分はゆうにかかります。
シテは、その間もずっと鏡の前で待っています。
そしてやはり、狂言方とお互いに挨拶をします。
その後、鐘後見・囃子方・地謡と、共演者が続々と楽屋に帰ってきます。
共演者は、必ず鏡の間に集結して、1人1人とお互いに挨拶を交わします。
能というのは、一人で演じることは出来ません。
舞台の上に立っている人はもちろん、楽屋で働いている人達全ての力が結集されて一曲の能は成り立ちます。
ですから、終わった後は必ず、お互いに「有難うございました」と、挨拶を交わすのです。
全員と挨拶を交わして、やっと装束を脱ぐことが出来ます。
装束を脱ぐと、真っ先に師匠の元へ挨拶に出向き、その後、各楽屋を挨拶に回ります。
そこでやっと緊張も取れ、お互い労をねぎらいます。
明後日の舞台で、お客様が能を見終わった後、感想を述べながら能楽堂を後にしている時、たぶん私はまだ鏡の間で共演者と挨拶しています。
楽屋の挨拶回りが終わって、「やっと終わった・・・」としみじみと脱いだ装束の片付けをしている頃、たぶんお客様は、千駄ヶ谷の飲み屋でビールの一杯でも飲んでいるころでしょう。
これが能という演劇なのです。
「礼に始まり礼に終わる」
どんなに疲れていても、どんなにしんどくても、礼を欠かすことはありません。
それは全く当り前のことであり、そうするものであると思っているので、何の疑問も不都合もなくそうしています。
とりわけ、特別なこととも思いません。
5年前、歌舞伎座で能と歌舞伎の「道成寺」を見比べるという催しがありました。能「道成寺」を演じたのは、故・観世栄夫師。歌舞伎「京鹿子娘道成寺」を演じたのは、中村勘九郎(現勘三郎)師。
その時のことを、勘三郎さんは、某新聞にこう書いていました。
「それで驚いたのは、観世先生が終わって舞台袖に入るでしょ、面(おもて)を取ってそのまんま正座してるのよ、着替えもせずにね。何事かと思って見てたら、一緒に出ていた1人1人に「ありがとうございました」って手をついてあいさつしているんだよ。歌舞伎では終われば、すぐ楽屋に戻っちゃうじゃないですか。これは客席からでは分からないことだね。礼に始まって礼に終わるじゃないけれど、ああ、ここまでがひとつの作品、芸術なんだなって思った。本当にいいものを見せてもらいました。」
中村勘三郎師は、能「道成寺」は当然何度も見ていますが、楽屋の袖から見たのは初めてだったそうで、驚きとともに、とても良いことを新聞に書いて下さいました。
この記事を読んだ時、私は「能って、素晴らしいなあ」としみじみと思いました。
at 21:38│