2015年09月

2015年09月23日

囃子会 舞囃子

このシルバーウィークは、大忙しでした。

その中で、9月20日には大鼓の柿原弘和師の素人会で舞囃子「班女」をさせて頂き、23日には笛の一噌隆之師の素人会で舞囃子「放下僧」をさせて頂きました。

会場は、どちらも国立能楽堂です。

我ながらエラくなったもんだと思います。


学生の頃、囃子方の素人会を見に行くのが大好きでした。

囃子方の素人会では、例えば大鼓の素人会では、大鼓の方は素人ですが、後のお囃子、地謡、シテは全員玄人です。

しかも、そうそうたる玄人が出演しています。

そうして、能楽界のスターと呼ばれる人達が、次々と舞囃子や能を舞ってくれます。

それが全て入場無料です。

こんな贅沢な事はありません。

今回も、両日とも多くの能楽ファンで観客席は埋め尽くされました。

能楽界の偉い先生たちが集まるなかで、舞囃子をさせて頂くなんて、とっても光栄なことです。

ただ、そういった偉い先生方が見守る中、舞うのは、たいそう緊張します。

両日とも、スゴい緊張感の中での舞でした。

はあ、疲れました。


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2015年09月22日

追悼 藤村健師

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私の最初の師匠、藤村健師が亡くなられました。
享年86歳でした。

13年前に大病を煩い、舞台の第一線からはお引きになりました。

ここ最近は、体調不良が伝えられていましたので、心配しておりました。

藤村先生の訃報を聞き、覚悟していたとはいえ、心に大きな穴が空いたままふさがりません。


藤村先生は、長く明治大学能楽研究部観世会の師範を勤め、200人以上の部員を指導されました。

私も明大能研に入部以来、本当にお世話になりました。

4月に入部して生まれて初めて見た能は、藤村先生の「鞍馬天狗」でした。

その時の、衝撃的な感動は忘れません。

私に能の魅力を伝え、能の道へ誘って下さったのは、紛れもなく藤村先生です。

今はただ、感謝の気持ちで一杯です。

大学4年生の春、同級生が就職活動に励んでいるのを後目に、私はどうしてもプロの能楽師になりたいと思い、藤村先生に頼みこみました。

先生は、「厳しい世界だぞ」

と、大反対なさいました。

しかし、私が何度も頼み込むので、「こいつには何を言ってもダメだ」

と思われたのでしょう。

藤村先生は、私が観世喜之先生のもとへ入門出来るようにとりはかってくださいました。

当時は内弟子も多く、すんなり入門できた訳ではありませんでした。

入門して修業中も、公私ともにお世話になりっぱなしです。

私が、2001年に観世流準職分の免状をとり独立し、これから舞台の上で少しずつ恩返ししたいと思っていた矢先の2002年に、ご病気で舞台を退きました。

2003年の初シテ「小袖曽我」はじめ、私が演じた能の舞台を一度もご覧頂けなかったのが心残りです。


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会場には、藤村健先生の舞台写真がたくさん飾られていました。

見ていると、自然と涙が込み上げてきます。


先生は、明大能研をたいへん熱心にご指導して下さいました。

今は、藤村先生のあとを受けて同じく明大能研OBの鈴木啓吾氏と共に、私が指導させて頂いております。

先生が愛してやまなかった明大能研の学生さん達を、精一杯指導するのが、今私が出来る恩返しかなと思います。


ご冥福をお祈り申し上げます。


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2015年09月05日

「昭君」御礼

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9月5日(土)、緑泉会にて能「昭君」を無事に勤めました。

この能は、何といっても前半が大変です。
冒頭に出てきてから、延々と謡っています。

前シテは、写真のように老人姿で登場します。

老人の謡は、低い声で力強くゆっくりと謡います。

この能は最初の15分ほどはずっと謡いっぱなしです。老人の謡い方でこれだけの長丁場の謡はしんどかったです。

また、箒で庭を清めるなど具体的な型もあり、とにかく気をつかう前場でした。

前場の最後に、老人は「恋しい人は鏡にうつる」という言い伝えを信じて、鏡を持ってきます。

普通は、「天鼓」や「富士太鼓」に使う鞨鼓台という作り物に鏡を付けて出します。
これがかなり大きなもので、シテがほとんど隠れてしまいます。

以前「天鼓」を演じたとき、正面から見ると、ほとんどの時間すっぽりと隠れていました。

今回は、矢来能楽堂にある鏡台を使用いたしました。

写真の通り、これなら横幅がないので、シテの姿がよく見えます。

実はこの作り物、矢来能楽堂での内弟子修業中に私が作ったものです。

竹屋で竹を買ってきて、細く割いて、バーナーで熱を加えて円形に曲げて形作りました。

内弟子時代、色んな作り物を作成しましたが、鏡台はその中でも最も大掛かりなものです。
自分が作った作り物なので、愛着がありますが、今まで自分で使ったことはありませんでした。

というのも、この鏡台は、使用するのは「昭君」「松山鏡」「皇帝」くらいでしょうか。
どれも稀曲といえます。

今回、「昭君」にて初めて使う機会を得たことは、嬉しいことです。


後場は、非常にバタバタでした。

子方は、次男・大志郎(8歳)が勤めました。
今年に入って5回目の子方です。
次男もだいぶん舞台に慣れてきました。

子方の出番は、後場だけですが、今回は人手がいなかったので、能が始まる前には装束をつけて待たさせました。

暑い中、着なれない装束を着て、一時間ほどの前場の間じっと待っているのは子供にとってはツライことでしょう。

何とか待っていた次男は、出番の前に唯一つけていなかった天冠をつけて舞台へ出る予定でした。

天冠という冠は、重いので、ギリギリに着けるということになっていました。

いざ、天冠をつけようとすると、これが上手くいきません。

大人用の冠を子供につけるので少々難しいのですが、それにしても上手くおさまりませんでした。

結局、天冠は頭にのっかっているだけという危ない状態でした。

「いいか、下向いたり、頭振ったりしたら、冠が落ちるから、おとなしくしているんだよ」

そう言い聞かせて次男を舞台に出しました。

後でDVDを見たら、神妙に動いているのがほほえましかったです。

今までの雑な動きが嘘のように、丁寧に演じていました。
これはケガの功名です。

中入は、そんなこんなで後見が子方にかかりっきりだったので、シテの装束着けも遅くなりました。

かなりバタバタしながら、舞台に上がったので、少々冷静じゃなかったかなあと反省しています。

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装束の不備もあり、型が上手く決まらなかったのも残念でした。
そのへんは、少々悔いが残ります。


後場は、鏡をのぞき込んで自分の姿を見込んだりするなど、面白い型が続きます。
あえてケレン味たっぷりに演じてみました。

何せ後シテは、中国の辺境の地の王様です。
能では、野蛮な民族の大将という扱いです。

その出で立ちに、昭君の父母が恐れおののくという設定です。

思う存分暴れまわって、ワイルドに演じなければ成り立たない役柄です。

あざとくならない範囲で、思う存分暴れまわりました。

後場はあっという間だったなあというのが印象です。


子供も、さんざん待たされた挙句に出番の直前にドタバタとして、そのうえ

「動いたら冠が落ちるぞ」などとプレッシャーをかけられて、さぞかしうんざりしているかと思いきや、

「お舞台楽しかった!!!」

と喜んでいます。

次男の言葉に救われました。


kuwata_takashi at 23:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)