2013年06月
2013年06月15日
丹後の国で道成寺
演目は、何と「道成寺」です。
シテは、観世喜正師です。
通常のホールでの能公演ではまず見られない、滑車が舞台の上に設えられます。
これに鐘を吊り、秘曲「道成寺」は演じられました。
この催しは、丹後で能の普及に心を注ぐ、能楽師・藤村昌子師の尽力で行われました。
地方のホールでの秘曲「道成寺」の上演は、極めて稀なことです。
さすがは、京都です。
京都府の北の外れの丹後の国であっても、極上の文化レベルです。
今日の公演は、丹後の国建国1300年を記念して行われました。
市政50年とか100年を記念しての公演は、よくありますが、1300年というのは文字通り桁が違います。
京都のことを、よく1000年の都などと言いますが、1000年では語り尽くせない京都の奥深さを感じました。
木曜日に、丹後の国に入って、「道成寺」の鐘を作りました。
金曜日は、小中学生向けの能公演と、「道成寺」の申合。
土曜日は「道成寺」公演と、充実した3日間でした。
2013年06月09日
「善界」御礼
日曜日、九皐会にて能「善界」を無事終えました。
先週の自主公演「能まつり」での「井筒」に続いて2週連続のシテでした。
今年前半の大きな山場を終えました。
九皐会の時は、自主公演と違って細々とした雑事はしなくてよいので、能「善界」に集中できます。
ゆっくりとした気持ちで臨むことが出来ました。
最初「次第」の出囃子で登場します。
「井筒」は静かにたおやかに運びますが、「善界」はドッシリと力強く運んでゆきます。
どちらもゆっくりと登場するのですが、歩くイメージ(ハコビの感じ)が全く異なります。
「井筒」終了後、こういった調整をずっとしていました。
前場は、落ち着いて演じることが出来ました。
一か所謡を間違えました。
間違えた瞬間、「あ、間違えた」と気がつきましたが、その後も引きずることなく繋がりました。
余裕が無い時は、一つの間違えから連鎖的にボロボロになってしまう事もよくあります。
私が懸念していたのが、後場です。
8年前は、ここでオラオラになってしまいました。
その時は、派手に見せようと、体を大きく使って演じているうちに、狩衣の大きな袖が絡まって、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。
当時は、まだまだシテの経験も少なく、装束を着た時の体の使い方の具合がつかめていなかったのです。
装束を着ていない時と同じように、キリリと鋭く動こうとして、結果的に空回りしてしまったのでした。
私たちプロの能役者は、能装束を着るのは本番一回きりです。
能装束は高価なものなので、稽古で着ることはまずありません。
普段は、装束を着た状態をイメージして稽古するのです。
したがって、実際に装束を着た経験が少ないと、どうしてもイメージしきれないものです。
能舞台は、経験がモノを言うのです。
今回は8年前の経験を、教訓として取り組みました。
やはり、大きな袖に振り回されることもありましたが、上手く取り扱えた気がします。
「善界」の後場は、特殊な構成です。
「大ベシ」という、極めてゆっくりなリズムの出囃子でドッシリと登場します。
ゆっくりなリズムなのですが、ただゆっくり動くのではありません。
無限の速さを内包してゆっくり動くのです。
野山を駆け巡る、天狗の速さ・勢い。
普通の演劇的手法だと、素早く動くことでその速さを表現します。
能の手法だと、逆に可能な限りゆっくり動くのです。
素早く動けが、速く見えます。当たり前です。
ただ、人間が速く動くスピードには限界があります。つまり、人間が写実的に速く動いても、決して天狗なみの速さは表現出来ないのです。
能は、無限の速さを内に含んでゆっくり動くことで、天狗の速さを表現します。
天狗の速さは、見ている人の心の中でイメージされます。
そういう手法がキチンとはまれば、本当に無限の速さを表現することが出来ます。
人間は、天狗なみに速く動くことは出来ません。
でも、人間の心の中には無限の空間が広がっています。
その広がりの分だけ、人間はイメージを膨らませることが出来るのです。
能の演技は、すべてその発想から成り立っています。
抽象的な能の表現は、そのためなのです。
まあ、そんな具合でゆっくり登場する後場の大天狗ですが、最後までゆっくりした動きだと、やはり消化不良です。
中ほどから、堰を切ったように動き回ります。
突然、写実的な速さを表現するのです。
それまでゆっくり動いていたので、一たび動きが速くなると、その効果はてきめんです。
最初から速く動いているよりも、ずっと速く感じられます。
これも能の表現の素晴らしい所です。
ただ、演じる側からすると、このような急激なスピードの変化はなかなか対応し難いのです。
落ち着いて、細心の注意を払って臨みました。
それなりに、上手くいったように思います。
速くなってからは、型が謡いに遅れがちになります。
8年前はまさにそうでした。
今回は、動き出すきっかけを少しずつ早めにしました。
すると、逆に型の方が早くなってしまいました。
自分の感覚より、体がキレていたようです。
今回、2週連続のシテという余裕のない状態でも、首尾よく演じられたのは収穫でした。
ただ、8年前のような突き抜けた勢いは無かったかもしれません。
良くも悪くも、落ち着いた芸に収まっているかもしれません。
落ち着いた精神状態でもって、突き抜けて勢いよく演じられれば最高なのですけどねえ。
なかなかそこまでは、たどり着きません。
2013年06月08日
リベンジ「善界」
昨日、申合が終わり今日は最終調整をして、明日に臨みます。
能「善界」を舞うのは、今回で2度目です。
初めて演じたのは、明治大学のホームカミングデーで明治大学博物館の企画で能の公演をさせて頂いた時です。
2005年10月のことでした。
この時は、初めての外部からの依頼公演ということもあり、とても張り切っていました。
ただでさえ、母校の明治大学で初めて行われる能公演ということで、プレッシャーがありました。
朝から、準備に忙しく、公演が始まってからは冒頭の解説も担当して大車輪の活躍。
本番の能のときには、エネルギーが残っていなくて、悔いの残る舞台となってしまいました。
その時の様子は、下記の日記をご覧ください。
http://shitashimu.dreamlog.jp/archives/51395379.html
その時誓ったリベンジの場が、明日の舞台です。
一生懸命頑張ります。
2013年06月05日
今度は「善界」
いつもはそうなのですが、今回は勝手が違います。
今週の日曜日、九皐会で「善界」を舞うことになっています。
何と、2週続けてのシテです。
そんなことは珍しいのです。
しかも、今回は二つの曲趣が全く異なります。
幽玄の美ともいうべき「井筒」は極端に動きの少ない能です。
一方、「善界」のシテは中国の大天狗。日本の仏教を滅ぼさんと大暴れです。
ここまで違うと身体がなじみません。
ただ、ややこしいことにこの2曲は意外と共通点もあります。
まず、前シテは数珠を持って登場。
登場の音楽は、次第。
問答の後、上歌があって、クリ・サシ・クセ・ロンギで、中入するという前場の構成。
クセは全く動かない「居クセ」
結構共通点があるので、変なところでゴッチャになります。
謡や型が混乱することは無いのですが、コトバのちょっとしたツメ方とか、歩く時の摺り足のちょっとした具合なんかが、微妙にゴッチャ混ぜになります。
5月半ばまでは並行して稽古していたのですが、5月下旬からは「井筒」に専念しました。
完璧な「井筒」モードで、自主公演を迎えたかったからです。
日曜日の「井筒」が終わり、月曜日火曜日は地方にてお弟子さんのお稽古でした。
お稽古場では、「井筒」の話に花が咲きます。
完全に「井筒」を引きずっています。
今日は、敢えてスケジュールを入れませんでした。
自宅で「能まつり」の残務処理をしながら、「善界」の稽古です。
身体を一回リセットして、「井筒」モードから「善界」モードに切り替えです。
一日中稽古していたら、顔まで天狗になってきました。
2013年06月03日
「井筒」御礼
主催公演「桑田貴志 能まつり」が無事に終わりました。
おかげさまで会場は満員御礼!!
ご来場の皆さま、有難うございました。
早速、写真が届いたのでいくつか載せてみます。
撮影は、能楽写真家の駒井壮介氏です。
会場の宝生能楽堂に到着すると、前の道を神輿が通っています。
どうやら、能楽堂の隣の神社でお祭りをやっているようです。
ある兄弟子に言われました。
「お、今日はお隣同士お祭りだねえ」
そうです、私の主催公演は「能まつり」とうたっています。
こいつは朝から縁起が良いや。
まるで、お神輿に祝福されるかの如く始まり、すっかり良い気分にひたりました。
例年の通り、主催公演は楽屋の中がとにかく忙しいのです。
慌ただしく動き回っているうちに、はや出番です。
今年、取り組んだ「井筒」という曲は、とにかく大変な曲です。
当日番組に、
「およそ能役者で、『井筒』が嫌いという人はいないのではないでしょうか。
誰もが、節目節目に取り組みたいと願っています。」
と書きました。
その通り、この曲には色んな能役者が様々な思いやこだわりを持っています。
稽古から、稽古能、申合と色んなアドバイスやご注意を師匠や先輩から受けました。
中には全く異なる、教えもあります。
それらを、全て考えて消化してきた日々でした。
今回、舞台に出た時はもう迷いはありませんでした。
自分の中で「井筒」の方向はもう決まっていました。
様々な教えを自分なりに咀嚼して、桑田貴志の「井筒」が演じられるよう、勤めました。
舞台の良し悪しの前に、そういう強い気持ちを持つことが出来たのが、今回の収穫かなあと思います。
こういう三番目物の幽玄な能は、荒くならないようにするあまり、力の感じられない舞台になりがちです。
今回は、敢えて強めに表現してみました。
キッチリとした骨格をキチンと見せる。
まずそれがないと、どんな表現にも説得力が生まれません。
その上で、謡や所作や型に「井筒」らしい情緒を加えていきました。
前場は、ほとんど動きがないので、綺麗に姿勢よくカマエを決めることを、一番重視しました。
あと、冒頭の「次第」「サシ」「下歌」「上歌」の段落で、謡がダレないよう気遣いました。
ここの段落は、なかなか名調子なので、謡っているうちに気持ち良くなってきて、ついつい間延びしてしまいがちです。
情緒は出しながら、気持は冷静になれるよう心がけました。
この段落を謡いきったところで、いつもなら疲れ果ててしまうのですが、今回は力がみなぎっているのを感じます。
前場は流れ良く出来たかなあと思います。
後場は、逆に少々悔いが残ります。
一種狂乱となった女性を演じたかったのですが、少々消化不良でした。
どうしても丁寧に演じようとするあまり、大事にやりすぎてしまいます。
「丁寧に演じなくてはいけないけど、力が抜けてはダメだ」
師匠がよくおっしゃる注意です。
三番目物の難しさって、結局はここなんですね。
「『井筒』なんて、ただやるだけだったら誰でも出来る。いかに情緒をもって『井筒』らしく演じるかが大事なんだ」
稽古能が終わった後、師匠から受けた注意です。
今回は、この言葉との戦いだったように思います。
「序の舞」では、笛の松田弘之師に特別にお願いして「初手」という変えの旋律を吹いて頂きました。
見事にはまっていました。
舞っていてダレやすい「序の舞」以降は、とにかく情熱的に演じてみました。
当然、表面上は静かに落ち着いています。
情熱は内に込めて演じられるように、常にブレーキをかけながらの舞えるよう、心がけました。
昨日終演後、元気よく動き回る私に、ある兄弟子が、
「よくそんな元気あるなあ。自分がやった後は、グッタリだったよ」
と言われました。
昨日は、カラダが興奮していたのでしょう。意外に元気でした。
一夜明けて、今日は布団から起き上がるのがツライ・・・
どっと疲れました。
さあ、来週は九会で「善界」です。
気持ちを入れ替えて頑張ります。