2009年04月

2009年04月22日

「道成寺」申合

「道成寺」申合終了。

本番より、申合の方が緊張すると、以前にも書いた気がします。
今日も、申合の独特の雰囲気にのまれて、ガッチガチ。

最初に道行を謡ったところでもう、クタクタ。
その後は、思うように動けず散々でした。

当日まであと4日、飛躍的に上手になりはしないので、体調を整えて頑張りたいと思います。


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2009年04月15日

乱拍子

「道成寺」の申合まで、いよいよ一週間となりました。
ここまで来たら、一番大事なのは体調管理です。
とにかく毎日、良く食べてよく寝るようこころがけています。

さて、「道成寺」の眼目は何と言っても乱拍子です。
乱拍子というと、なんだかグチャグチャの拍子の舞のように思われますが、元々は蘭たる(たけたる)拍子という意味です。すなわち、最高位の拍子ということのようです。

乱拍子はとにかく不思議な舞です。
舞と言いながら、ほとんど動きません。

楽器は基本的には小鼓だけによって囃されます。所々、笛が旋律をあしらうのみです。
小鼓方が非常に大きな間を保ちながら、裂帛の掛け声をかけて音をならします。
シテはその音に合わせながら、わずかにつま先を上げたり下ろしたりするのみです。
乱拍子を支配しているのは、基本的に静寂です。

そういったやりとりが、30分近く続きます。

ドイツの建築家のブルー・タウトという方は、1935年に乱拍子を見てこう日記に書いています。

この舞は、芸術的手段の極度の圧縮だ。これ以上の圧縮は全く不可能であり、従ってまたその芸術的効果もこれ以上に出ることはできない。実に讃嘆すべき芸術だ。これが日本なのだ。最も単純なもののなかに・・・・一切がある」


この乱拍子、はたから見ているととても長い時間に感じられます。
実際、30分ものあいだほとんど動かないのですから、無理もありません。

でも、やっていると案外あっという間です。
極度の緊張のなかで、神経を研ぎ荒ませて集中して舞うので、長いとか感じるヒマもありません。
下申合で一通りやりましたが、私はずいぶん早く終わったように感じられした。

「あら、今日の乱拍子はカルかった(早かった)なあ」
と思っていたら、他の共演者は、
「今日の乱拍子はずいぶんしっかりしていたなあ」
と感想を述べていました。

あとで録音を聞くと、標準より長い時間費やしていました。
人間が感じる時間の感覚って、相対的なものなのですね。

最近、下申合のテープを使って稽古しています。
同じテープの乱拍子でも、長く感じたり短く感じたりします。
長く感じる時は、だいたい集中力と緊張感が欠けている時です。

それは、観る側も同じだと思います。
終わった後、お客様に「今日の乱拍子は短かったわね」と感じてもらいたいです。
そのためには、私が極限まで集中して演じることが大切かなあと思います。

とにかく、しんどくて苦しい乱拍子ですが、真っ向から取り組みます。
そして凛とした緊張感が感じられる、張りつめた乱拍子を舞いたいと思います。


at 22:25|Permalink

2009年04月13日

道成寺詣で(5)

大変お世話になった副住職に、舞台の成功を誓いお別れしました。
その後、もう一度一人で境内を散策しました。
せっかくの満開の桜も散り始めました。何だか、私の到着を待っていたかのような絶妙なタイミングです。
今年の桜ももう終わりです。

入相桜の下で、しばし感慨にふけりました。
「ここで、安珍清姫伝説が起こったのか・・・」

もうキリがありません。名残惜しくはありましたが、帰路へつきました。
見ると、手には数々の紙袋やビニール袋。大事なお札やお守りや、土産物が小分けに袋で下げられ、雨にぬれています。
これはマズイ。
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慌てて仁王門で傘を下ろして、小分けの袋を大きなカバンに纏めました。もちろん濡れないようにしっかりビニールでくるみました。
もう大丈夫です。再び傘を持とうとすると・・・

傘の上が花盛り。
これは、先ほど佇んでいた入相桜の花びらです。
傘に咲いた、華麗なる花盛り。思わずビニール袋に入れて持ち帰りました。
入相桜の花びらは、今我が家に、祈祷の際いただいたお札とお守りと共に、大事に飾られています。




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もう、お昼はとっくに過ぎています。参道にある食堂でご飯を食べて帰ることにしました。
その名も「レストラン安珍」
最初、「あ」の字が「ち」に見えてビックリしました。

名物は「安珍丼」
あんかけに、かしわのミンチン(ミンチー)で「アンチン」
ちょっと苦しいですね。
ビールジョッキにも、「あんちん」ebc200ed.jpg


その他、「安珍定食」「安珍うどん」などたくさんシリーズがありました。
ここは、商魂たくましい関西なのだということが、改めて感じられます。








道成寺をあとし、日高川を見て、再び「道成寺駅」へ。
無人駅で、券売機もない。
このまま電車にのっても良いのかなあ・・・
電車に乗ると、扉の脇に何と整理券。そうです、バスなんかによくあるあの整理券です。d0e7d524.jpg



どうもこの辺の電車は、整理券を引いて乗車して、降りるとき車掌に整理券と運賃を払うようです・・
SuicaやICOCAなんかは当然使えません。

道成寺・・・ どこまでも凄いところです。



at 23:29|Permalink

2009年04月11日

道成寺詣で(4)

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堂を出ると、雨が降っていました。実はこの日は朝から雨の予報だったのですが、私の祈祷が終わるまで、雨は落ちるのを待っていて下さったようです。
副住職は、さらにお寺の境内を案内して下さいました。

まず、「入相桜」
文楽の「日高川入相花王」の桜ですね。能にも、「入相の鐘に花ぞ散りける」と出てきます。
最近の発掘調査によると、この桜の下から焼けた土がたくさん出てきたそうです。

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「恐らく、ここに初代の釣鐘はあったのでしょう。安珍清姫事件はこのあたりで起こりました。古くから伝えられている、鐘巻之跡の場所は間違っていることになります」

鐘巻之跡とは、安珍清姫伝説が起こった場所と伝えられ、鐘の形に石で囲ってある場所であり、道成寺の中でも屈指の観光スポットです。その場所が間違えているっていうのですから、副住職も凄いことをサラリとおっしゃいます。

副住職は疑いもなく言います。
何が起こったか定かではありませんが、1000年前にこの場所で大火事が起こったことは、確かなことだそうです。
その火事のあとを供養するため、この桜を植えて人が立ち入らないようにしたのでしょう。

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続いて、安珍を焼けた初代釣鐘とともに供養して埋めた「安珍塚」です。
この塚に生えてきた木は、根元からねじ曲がっています。
副住職は、きっと清姫の呪いであろうと言います。

そのまま、二代目の釣鐘があった鐘楼跡や三重塔などを散策して、いよいよ仁王門です。ここから、例の62段の石段を上から眺め、能の道行に出てくる「小松原」の場所を説明して下さいました。

雨足が強くなってきたので、仁王門の下でしばし雨宿り。副住職は色々なお話をして下さいました。
ありがたいお話ばかりでしたが、最も心に残ったのは、一昨年101歳で亡くなられた九皐会の大先輩・塩谷武治師のことです。

今でこそ、道成寺を演じる者は、能・歌舞伎・文楽問わず道成寺詣でに行くのは普通になっておりますが、電車も通っていない戦前は、参詣するものは稀だったそうです。
その先鞭をつけたのが、塩谷さんだったそうです。

塩谷さんは、とても信心深いことで知られ、薬師寺や興福寺の奉納能など多くのお寺の奉納に亡くなる直前まで携わっていらっしゃいました。
先代の観世喜之師が亡くなって30年以上経ちますが、塩谷師はその間毎月、月命日には大阪の観世喜之師の家の仏壇にお参りにいらしていたそうです。
全国のお寺に行くと、あちこちで塩谷さんの話が出てきます。この道成寺でも、塩谷さんにとても感謝している様子でした。
道成寺の宝佛殿に、能「道成寺」で使う鐘の作り物が釣ってあります。
これは、大槻能楽堂で使わなくなった作り物を、塩谷さんが持ってきて奉納したものだそうです。


雨は、ますます激しくなってきます。気が付くと、境内に人影はまばらです。
午前中の賑やかな喧騒がウソのようです。
14年前に見た、寂しげな何とも言えない風情が支配しています。

道成寺は、参道から石段・仁王門・本殿が一直線になっています。
つまり、仁王門は道成寺の中心。
静寂なる道成寺の中心で、副住職と話した時間は、1時間以上に及びました。
こんな貴重な時があるでしょうか。


その後、宝佛殿に行きました。まずは、数々の「道成寺」の舞台写真を眼に入ってきます。
能・歌舞伎・文楽をはじめ、バレエやフラメンコの写真が所狭しと飾ってあります。
これだけ多くの道成寺の舞台写真が一堂に会している場所は、ここだけでしょう。
これを見るだけでワクワクしてきます。

このあと、国宝・千手観音を始めとする数々の秘仏を、副住職の説明により、丹念に眺めました。

そして最後は、名物の「道成寺縁起」の絵説き説法です。
先ほどまで、神妙にお話していらした副住職ですが、この絵説きでは、講談師顔負けの軽妙な語り口。
14年前と同様、笑い転げながら聞いていました。


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2009年04月08日

道成寺詣で(3)

普段は外側しか拝むことのできない、道成寺の本堂。
しかし、只今特別御開帳中でした。

副住職がおっしゃるには、春や秋など気候の良い時は、本堂内部や御本尊の千手観音などもたまに御開帳しているそうです。
兄弟子から聞いた、厳粛な雰囲気は皆無。本堂内は、たくさんの観光客でごったがえしています。

そんな中、4月26日の「道成寺公演」の無事を祈願した祈祷が始まりました。
最初にお香を焚きます。なんとも言えないいい香り。一気に気持が引き締まります。

やがてお経が始まります。
ご本尊の周りは、珍しいものが始まったとばかり、人がどしどし押し寄せてきます。もう黒山の人だかり。

ただ、不思議と気になりませんでした。副住職のお経が進むにつれて、千手観音に包みこまれていくような感覚がしてきます。何と言ったら良いのでしょうか。いわゆる「無」の境地とでもいいましょうか。
次第に、ご本尊と副住職と私、これらしか実体が感じられなくなってきました。

たくさんの見物人は、何だか見届け人に思えてきました。
「これだけ多くの人が、私の公演の無事を一緒に祈願して下さっている・・・」
そう思えたから不思議でした。

やがて祈祷は終わりました。何だか夢から覚めた心地でした。
気付くと、30分以上経っています。全く時間という概念を感じない30分でした。

副住職は、せっかく御開帳期間なので、続いて本堂の内部を案内して下さいました。
その時、凄い事実を聞きました。
なんと、今年は能「道成寺」の舞台となった、釣鐘の再建供養からちょうど650年だそうです。

副住職がおっしゃるには、初代の釣鐘は、928年に清姫さんによって焼かれてしまいました。その後、ずっと道成寺に釣鐘はなかったのですが、1359年に再建されて大々的に再建供養法要が行われたそうです。
このことは、釣鐘に刻印として刻まれ、数々の文献にも記述が見えることから紛れもない事実だそうです。

「安珍清姫伝説」で有名な道成寺に、約400年ぶりに釣鐘が釣られた・・・
これは大ニュースだったようで、日本中に広まり、やがてそのトピックを脚色して「鐘巻」そして「道成寺」という能が作られていったそうです。

「再建法要は、旧暦の3月11日。きっと今日のような見事な桜が咲いていたことでしょう。」
副住職はしみじみとおっしゃりました。後で、私が参詣した4月4日は旧暦で何日に当たるのか調べて見ました。
すると、3月9日でした。惜しい、2日違いでした。
ちょうど650年と知っていれば、4月6日に参拝したのですが・・・

それにしても、釣鐘再建650年の年に、九皐会100周年記念特別公演で、一世一代の道成寺を勤める。
大変ありがたい巡り合わせです。

二代目の釣鐘は、能のように白拍子に落とされることなく、以後ずっと道成寺に釣られ、朝夕その音を響き渡らせていたのですが、豊臣秀吉の紀州攻めの際に、略奪されていったそうです。
豊臣秀吉といえば、大変な能狂いで知られます。
きっと、能で有名な道成寺の鐘を、我が物にしたいと願ったのでしょう。
その鐘は、今でも京都の妙満寺に大切に納められているそうです。

よく知られた言い伝えに、
「道成寺の釣鐘は、呪われている。初代は安珍清姫伝説を生み、二代目は豊臣秀吉に略奪され、能や歌舞伎の中では白拍子に落とされる。災いをもたらすから、道成寺は釣鐘を決して再建しないのである」
というものがあります。

私は、副住職に三代目の釣鐘を再建する予定はあるのか聞いてみました。
すると副住職は意外そうに言います。

「三代目? だって二代目の釣鐘はまだ健在ではないですか。場所は違いますが、妙満寺の鐘は道成寺の鐘です。大事に思う気持ちに変わりはありません。今はここにはありませんが、いつか戻ってくるかも知れません。案外、芸能が大好きな二代目の釣鐘は、芸能の本場・京都に行きたかったのかも知れません。
それに能の中にもこう出てくるではありませんか、『撞かねどこの鐘、響き出で』
道成寺の鐘は、撞かなくても全国の能舞台・劇場で鳴り響いています。私は、その音がいつも聞こえます」

完全に脱帽です。いい加減な言い伝えなど、信じるものではありません。
私も、4月26日に、紀州・道成寺まで響く鐘を鳴らしますと、副住職に約束しました。


at 23:18|Permalink