2009年04月

2009年04月30日

「道成寺」回顧(2)

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乱拍子はしんどかったですが、稽古通り出来たという印象です。

「乱拍子は、稽古するから皆上手く出来るんだよ。道成寺の難しさは他にある」と言われましたが、まあそんなものなのでしょうか。

でも、このテンションで臨むことはもう二度とないんだろうな・・・

「静」の極限の乱拍子から、「動」の急之舞に移りました。
ある評論家の方が、「急之舞は世界一速い舞」と言っているのを聞いたことあります。
世界一かどうかはともかく、間違いなく能の中では一番早い舞です。

能「道成寺」の中でも大きな見せ場です。
でも少し経った今、舞台を思い出しても、急之舞を舞った記憶が無い・・・
無我夢中という言葉が当てはまります。

同じことは鐘入りにも言えます。

大変な危険と背中合わせの鐘入り、過去いろんな事故の話も聞いています。
鐘後見は、名人の師匠ですから全く心配していなかったのですが、何故か前日になって急に恐怖が押し寄せてきました。
当日の朝、家を出る時にふと、
「この家に再び戻って来れるのかなあ」
という考えが頭をよぎりました。実は結構ビビっていたのです。

でも、本番の鐘入りは正に無我夢中。
気がついたら鐘の中にいて、

「あ、生きてる」

と感じたのを良く覚えています。

そうかと思うと、所々は鮮明に覚えています。高速で動いていたはずなのに、スローモーションのようにゆっくりと景色が浮かんできます。
人間の感覚って不思議ですね。

鐘の下に入ったとき、瞬間的に思いました。
「あ、少し後ろに入った」
このままだと、背中に鐘があたると思ったので、拍子を踏みながら少し前進しました。

鐘が上から、スルスルと下りてきます。鐘のふちが眼の前にせまります。
ちょうど、目線の高さに鐘のふちがあったのに、拍子を踏みながらふちが徐々に上がっていきます。
「なるほど、拍子を踏みながら、腰がはいってきて、体が沈んでいるのかなあ」
なんて分析していました。

鐘のふちから舞台から白洲へ降りる階段(きざはし)が見えました。どうも、左右はキチンと真ん中に入っているらしい。

色んな事が、ハッキリと浮かんできます。それらはホンの一瞬の出来事のはずです。
わずか数秒のうちに、よくまあこれだけのことが思い浮かんだものだと、我ながら感心いたします。

でも、肝心の鐘入りの瞬間。すなわち飛び込むところは全く覚えていません。

「え、今自分は鐘に入ったんだよね? どうやって?」
と思いました。

実は、飛ぶ時にある秘策を考え付いていたのですが、その秘策を実行にうつしたかどうか、全く覚えていない。
後で、とても綺麗なタイミングで入っていたと言われてホッとしました。


何年か前NHKが、道成寺の鐘入りの時の心拍数を測定する実験を行っていました。
普段は脈拍80前後のシテは、乱拍子から鐘入りまでは200を超える数値で推移していたそうです。
ちなみに後日、シテに全力疾走してもらって、その後脈拍を測ると、160だったそうです。
特に乱拍子など、激しい動きなど何もしていないのに、全力疾走を超える心拍数であるというのは驚きでした。

鐘入りの時の精神状態って、人智を超えていますね。

高速道路で大事故にあったという方の話を聞いたことあります。
スピンする車の中で、周りの景色がスローモーションのように見え、家族の顔やら今までの出来事などが次々と思い浮かんできたそうです。

その時の話を思い出しました。
極限の時の精神状態って、案外そんなものなのかもしれません。


at 23:35|Permalink

2009年04月29日

「道成寺」回顧(1)

「道成寺」も終わり、至福の休日を過ごしています。

全身全霊をかけて臨んだ「道成寺」
少し余裕も出てきたので、当日を振り返ってみたいと思います。

装束付けは、ギリギリでした。
何せもう一番が「摂待」という人数物です。
「摂待」と「道成寺」の間が一時間くらいしかなかったので、本来なら「摂待」の間に、鐘の仕込み等全て終えて装束付けにも掛りたかったのですが、「摂待」の間は楽屋に人が誰もいないので、一人で粛々と装束の準備を行い、「摂待」が終わるや否や、1時間半もツレとして舞台に座っていた兄弟子たちに協力を仰いで、鐘を動かして、鐘の中に仕込みを行って、慌しく装束を着けていただきました。

何せ、囃子方がお調べをしている時、まだ装束が着け上がっていませんでしたから・・・

さすがに少し焦りましたが、「道成寺」の場合、開演してからシテの出まで随分時間があるので、その間にすっかり気持は落ち着きました。
あまり早くから装束着けてスタンバイしていたら、かえっていろいろ考えて硬くなっていたかもしれません。

いよいよ、シテの幕が開きました。
申合で、橋掛かりの歩みが遅いと言われていたので、こころもちスラスラ運ぶ予定だったのですが、何故だか足が前に出て行きません。
何だか、自分であって自分でないような不思議な感覚でした。

後で聞くと、橋掛かりの歩みはゆっくりだったけど、囃子や雰囲気に合ったとても良い風情だったそうです。
足が前に出ていかないのは、緊張のせいかと思っていましたが、今になって考えると、何か大きな力に運んでもらったような感覚です。

次第・道行と、舞台は進んでいきます。
物着で烏帽子をつける時、申合の時はもうこの時点でクタクタでした。
それから思うと、力がみなぎって充実しているのが感じられます。
「よし、これからノンストップだ」

気合いを入れて、いよいよ乱拍子。
大鼓のK師の気合たっぷりの一調に送り出して頂き、小鼓のU師との一騎打ち。

申合と比べて、体がスムーズに動きます。
何だかこれも、大きな何かに動かされている感覚でした。

途中からはさずがに辛かったです。乱拍子やりながら思いました。
「もう道成寺はいい。二度とやらない」

乱拍子が終わりに近づくにつれ、また気持が昂ってきます。
「よしよし。。。キターーー」
なんて訳のわからないことを心の中で叫んでいました。
不思議な精神状態ですね。

本番の乱拍子は、短く感じました。
でも実際は、30分位かかっていたそうです。
終演後、小鼓のU師とそんなに時間かかったっけなあと、首をかしげ合いました。

さあ、いよいよ「急之舞」から運命の「鐘入り」です。続きは次回に。


at 22:21|Permalink

2009年04月27日

「道成寺」御礼

「道成寺」 無事に勤め終わりました。


見えない何かに舞わさせていただいた、あっという間の1時間50分でした。



私につながる全ての人に、御礼申し上げます。


at 17:04|Permalink

2009年04月25日

「道成寺」前日

今、最後の稽古を終えました。
後は、明日の本番を残すのみ。

白拍子と蛇体に取り組んで、およそ一年。
いったい、何回稽古しただろう・・・

よく、「道成寺百回稽古」なんて言います。
でも、百回じゃあ足りないです。

実際に舞台で、「道成寺」の稽古を始めたのが去年の夏頃。
11月に同門の人の披きがあったので、それまでに自分も動けるようにしようと、稽古に取り組みました。

11月から12月にかけて、毎週のようにシテと素人会が続きましたが、並行して動いていました。

12月に「春日龍神」のシテが終わってからは、もう「道成寺」一色。
それからのの4ヶ月間、ほぼ毎日「道成寺」の稽古を積みました。

どんなに疲れていても、帰宅が夜中になっても、家の舞台で必ず動きました。

数やれば良い、という問題ではないことは分かっています。

でも、これだけやったという裏付けが、自信を呼びます。
自信があれば開き直れます。

明日は、楽しんで演じたいと思います。


at 12:44|Permalink

2009年04月24日

「道成寺」後話

「道成寺」まであと2日。もう開き直っています。

当日まで、思うところをいろいろ書こうかと思ったのですが、全くそんな気持ちの余裕はありませんでした。

今、こうして書けるのは、ただの開き直りです。


さて、もう色々書く時間もないので、一つだけほとんどの方が知らないことを書きます。

それは、日高川に飛び込んだ後の話。

能「道成寺」に関しては、それこそありとあらゆる事柄が、様々な書き物や文章としてあらわされています。
能楽研究者や評論家、または能楽師本人らが、色んなことを書いています。
今さら私がとりたてて書くようなものはありません。

ただ、それは日高川に飛び込むまでの話。その後について述べてある文章は後で紹介するある役者さんのものしか見たことがないので、ちょっと書いてみます。

「日高川に飛び込む」とは、能「道成寺」の終曲のところのことです。

能では、「日高の川波深淵に飛んでぞ入りにけり」と、シテは勢い良く揚幕へ飛び込んで終わります。
最後の見せ場です。それまで1時間45分位に渡って体力の限界を超えて演じてきたシテは、最後の力を振り絞って橋がかりを走り抜け、揚幕へ飛び込んでいきます。
飛び込んだ瞬間に揚幕は下ります。その後は、お客様には全く見えません。

力を出し切って、飛び込んだシテ、キチンと着地することはまずありません。
色んな人のシテの飛び込みを、幕の中で見ましたが、ほとんどの人はそこでぶっ倒れます。正月に箱根駅伝なんか見ていると、ゴールしたランナーが、次のランナーにタスキを渡した瞬間、その場に倒れこんだりします。
揚幕に飛び込んだシテは、駅伝ランナーのごとく、力尽きてしまうのです。

しかし、シテは必ずむくりと起き上がります。そして、キチンとした着地の姿勢(能の型で言うところの下居の姿勢)をとります。

何故か?
まだ能は終わってないからです。

舞台の上では地謡はなおも「望み足りぬと験者達は・・・」と歌い続け、ワキは喜びを表す型(ユウケン)を行っています。
まだ能は終わっていない以上、シテは幕の中のお客様に全く見えないところで、なおも演技を続けます。ぶっ倒れたいところなのですが、それは許されません。続いてシテは立ち上がり、ワキの留拍子に合わせてツメ足するまで、全く気を抜きません。

やっと、地謡が最後まで謡いました。さあ能は終わりました。シテはホッとして能面を外します。そして、必ず自分の姿を幕の中、すなわち鏡の間にある大きな鏡に映して、能が終わった様を確認します。

しかし、それで終わりではありません。鏡の前に座って待っています。

誰を?
ワキとワキツレが舞台から橋かかりを通って帰って来るのを待ちます。そして、鏡の間でお互いに挨拶をします。

その後、狂言方の鐘後見が鐘を下ろし、ゆっくりと鏡の間に運んできます。
時間にして5分はゆうにかかります。
シテは、その間もずっと鏡の前で待っています。
そしてやはり、狂言方とお互いに挨拶をします。

その後、鐘後見・囃子方・地謡と、共演者が続々と楽屋に帰ってきます。
共演者は、必ず鏡の間に集結して、1人1人とお互いに挨拶を交わします。

能というのは、一人で演じることは出来ません。
舞台の上に立っている人はもちろん、楽屋で働いている人達全ての力が結集されて一曲の能は成り立ちます。

ですから、終わった後は必ず、お互いに「有難うございました」と、挨拶を交わすのです。

全員と挨拶を交わして、やっと装束を脱ぐことが出来ます。
装束を脱ぐと、真っ先に師匠の元へ挨拶に出向き、その後、各楽屋を挨拶に回ります。

そこでやっと緊張も取れ、お互い労をねぎらいます。


明後日の舞台で、お客様が能を見終わった後、感想を述べながら能楽堂を後にしている時、たぶん私はまだ鏡の間で共演者と挨拶しています。

楽屋の挨拶回りが終わって、「やっと終わった・・・」としみじみと脱いだ装束の片付けをしている頃、たぶんお客様は、千駄ヶ谷の飲み屋でビールの一杯でも飲んでいるころでしょう。


これが能という演劇なのです。
「礼に始まり礼に終わる」
どんなに疲れていても、どんなにしんどくても、礼を欠かすことはありません。
それは全く当り前のことであり、そうするものであると思っているので、何の疑問も不都合もなくそうしています。
とりわけ、特別なこととも思いません。


5年前、歌舞伎座で能と歌舞伎の「道成寺」を見比べるという催しがありました。能「道成寺」を演じたのは、故・観世栄夫師。歌舞伎「京鹿子娘道成寺」を演じたのは、中村勘九郎(現勘三郎)師。

その時のことを、勘三郎さんは、某新聞にこう書いていました。

「それで驚いたのは、観世先生が終わって舞台袖に入るでしょ、面(おもて)を取ってそのまんま正座してるのよ、着替えもせずにね。何事かと思って見てたら、一緒に出ていた1人1人に「ありがとうございました」って手をついてあいさつしているんだよ。歌舞伎では終われば、すぐ楽屋に戻っちゃうじゃないですか。これは客席からでは分からないことだね。礼に始まって礼に終わるじゃないけれど、ああ、ここまでがひとつの作品、芸術なんだなって思った。本当にいいものを見せてもらいました。」

中村勘三郎師は、能「道成寺」は当然何度も見ていますが、楽屋の袖から見たのは初めてだったそうで、驚きとともに、とても良いことを新聞に書いて下さいました。

この記事を読んだ時、私は「能って、素晴らしいなあ」としみじみと思いました。


at 21:38|Permalink