2009年01月
2009年01月14日
華麗なるスポーツ少年 「サッカー編」
祝・広島皆実高校、サッカー高校選手権優勝!!
元広島のサッカー少年として心からお祝い申し上げます。
ええっっ!! お前サッカー少年だったの?
驚く声が聞こえてきます。
今でこそ、ブクブクのメタボ体型のいち能楽師ですが、昔はそこそこのスポーツマンでした。
少し悲しい企画ではありますが、私の過去のスポーツ遍歴を振り返ってみようかと思います。
今では見る影もありませんが、私は、昔はスポーツ少年でした。
クラスで一番足も速く、ジャンプ力やボール投げといった運動能力もトップクラスでした。
私の生まれ育った広島というところは、サッカーの盛んな地域です。
一般に、静岡・埼玉・広島が三大サッカー所といわれます。どうも、初めて日本にサッカーが渡ってきた時、これら三県の師範学校に伝えられたのが最初だからだそうです。
それが証拠に、戦前の高校サッカー選手権の優勝校はほとんどこの三県の代表校です。
特に、私の通っていた小学校はとてもサッカーが盛んでした。
小学校のクラブというより、たぶん地域のサッカー少年団のようなものだと思うのですが、地元ではかなりの強豪チームとして知られていました。
今では信じられませんが、毎朝、7時から8時15分まで朝練をしています。私の小学校の生徒は、毎朝サッカー部の練習を見ながら登校します。自然に憧れがわいてきます。
私の住んでいた市内は小学校に制服があったのですが、サッカー部の連中だけ朝練の関係で、ジャージで通学することが許されていました。
プーマやナイキなどのジャージを着て歩くサッカー部の何とカッコ良かったことか・・
そんな雰囲気から、校内でスポーツの出来る子は自然とサッカー部に入るという環境でした。
私もそんな流れから自然と小学校4年生の時からサッカーを始めたのです。
部員は、80人位はいたと思います。何せ、A・B・Cと三チームありました。
私は最初Bチームでした。試合に出られるのはトップチームであるAチームだけです。
確か5年の中頃にAチームに上がったかと思います。何度か試合に出たような覚えもあります。
ただ、私は田舎の小学生にしては珍しく、中学受験をしたため、その準備として6年生になったらサッカー部を辞めてしましました。
やっと試合に出場できるようになっていたので、少し残念でした。
私がサッカーを辞めた直後、あのサッカー漫画の金字塔「キャプテン翼」が始まりました。
もう、サッカーは大ブームとなり、サッカー部も入部希望者であふれんばかりとなってしまい、大活況だったようです。
その後、チームに入ってサッカーをやることはありませんでしたが、観戦は今でも大好きです。
また、やはりサッカーが盛んな地域なのか、高校時代、昼休みは同級生達と毎日サッカーをやっていました。
昼ゴハンを食べると、何処からともなく皆集まり、グッパで別れて校庭でサッカーです。
よくやっていました。
そんなこと言うと、ポジションは何処だったの?
などと言われますが、ポジションなんか決めた覚えはありません。
さすがにキーパーだけは決めました。だいたいジャンケンで負けた人です。
あとは、ボールの周りにみんなで突進という幼稚なサッカーです。
時は流れ、みんな高校三年生になります。
私の通っていた高校はそれなりの進学校だったので、みんな進学します。
でも、昼休みのサッカーは毎日続けられました。
高校生活の最後の関門、大学受験。その幕開けを告げるセンター試験が始まりました。
私たちは、運の良いことに自分の通っている高校がセンター試験会場でした。
いつもの教室で試験が受けられるので、本当に心強かった覚えがあります。
いつもの通学路を通って、いつもの所に自転車を止めて、いつものげた箱に靴を入れていつもの上履きに履き替えて、校舎に入ります。
試験の合間には、いつもの自動販売機でジュースを買って、いつものベンチに座って飲みます。
昼休みはいつもの学食でいつものカレーを食べて、いつものようにグランドに向かいます。
いつもは、ここでサッカーです。
何となく、いつもの習慣でお昼ゴハンのあと、グランドに来てしまいました。すると・・・
いつものメンバーがもう集まっています。
「おい! 早く来いよ。チーム分けするぞ!!!」
たぶん、日本中の高校生で、センター試験の昼休憩にサッカーをしていたのは我々だけだったと思います。
その時、一緒にサッカーに興じた連中は、ほとんどの者が、東大やら京大やら大阪大などの一流大学に進みました。
今は、それぞれの場所で、社会の中堅として活躍しているはずです。
また集まって、サッカーやりたいなあ。
元広島のサッカー少年として心からお祝い申し上げます。
ええっっ!! お前サッカー少年だったの?
驚く声が聞こえてきます。
今でこそ、ブクブクのメタボ体型のいち能楽師ですが、昔はそこそこのスポーツマンでした。
少し悲しい企画ではありますが、私の過去のスポーツ遍歴を振り返ってみようかと思います。
今では見る影もありませんが、私は、昔はスポーツ少年でした。
クラスで一番足も速く、ジャンプ力やボール投げといった運動能力もトップクラスでした。
私の生まれ育った広島というところは、サッカーの盛んな地域です。
一般に、静岡・埼玉・広島が三大サッカー所といわれます。どうも、初めて日本にサッカーが渡ってきた時、これら三県の師範学校に伝えられたのが最初だからだそうです。
それが証拠に、戦前の高校サッカー選手権の優勝校はほとんどこの三県の代表校です。
特に、私の通っていた小学校はとてもサッカーが盛んでした。
小学校のクラブというより、たぶん地域のサッカー少年団のようなものだと思うのですが、地元ではかなりの強豪チームとして知られていました。
今では信じられませんが、毎朝、7時から8時15分まで朝練をしています。私の小学校の生徒は、毎朝サッカー部の練習を見ながら登校します。自然に憧れがわいてきます。
私の住んでいた市内は小学校に制服があったのですが、サッカー部の連中だけ朝練の関係で、ジャージで通学することが許されていました。
プーマやナイキなどのジャージを着て歩くサッカー部の何とカッコ良かったことか・・
そんな雰囲気から、校内でスポーツの出来る子は自然とサッカー部に入るという環境でした。
私もそんな流れから自然と小学校4年生の時からサッカーを始めたのです。
部員は、80人位はいたと思います。何せ、A・B・Cと三チームありました。
私は最初Bチームでした。試合に出られるのはトップチームであるAチームだけです。
確か5年の中頃にAチームに上がったかと思います。何度か試合に出たような覚えもあります。
ただ、私は田舎の小学生にしては珍しく、中学受験をしたため、その準備として6年生になったらサッカー部を辞めてしましました。
やっと試合に出場できるようになっていたので、少し残念でした。
私がサッカーを辞めた直後、あのサッカー漫画の金字塔「キャプテン翼」が始まりました。
もう、サッカーは大ブームとなり、サッカー部も入部希望者であふれんばかりとなってしまい、大活況だったようです。
その後、チームに入ってサッカーをやることはありませんでしたが、観戦は今でも大好きです。
また、やはりサッカーが盛んな地域なのか、高校時代、昼休みは同級生達と毎日サッカーをやっていました。
昼ゴハンを食べると、何処からともなく皆集まり、グッパで別れて校庭でサッカーです。
よくやっていました。
そんなこと言うと、ポジションは何処だったの?
などと言われますが、ポジションなんか決めた覚えはありません。
さすがにキーパーだけは決めました。だいたいジャンケンで負けた人です。
あとは、ボールの周りにみんなで突進という幼稚なサッカーです。
時は流れ、みんな高校三年生になります。
私の通っていた高校はそれなりの進学校だったので、みんな進学します。
でも、昼休みのサッカーは毎日続けられました。
高校生活の最後の関門、大学受験。その幕開けを告げるセンター試験が始まりました。
私たちは、運の良いことに自分の通っている高校がセンター試験会場でした。
いつもの教室で試験が受けられるので、本当に心強かった覚えがあります。
いつもの通学路を通って、いつもの所に自転車を止めて、いつものげた箱に靴を入れていつもの上履きに履き替えて、校舎に入ります。
試験の合間には、いつもの自動販売機でジュースを買って、いつものベンチに座って飲みます。
昼休みはいつもの学食でいつものカレーを食べて、いつものようにグランドに向かいます。
いつもは、ここでサッカーです。
何となく、いつもの習慣でお昼ゴハンのあと、グランドに来てしまいました。すると・・・
いつものメンバーがもう集まっています。
「おい! 早く来いよ。チーム分けするぞ!!!」
たぶん、日本中の高校生で、センター試験の昼休憩にサッカーをしていたのは我々だけだったと思います。
その時、一緒にサッカーに興じた連中は、ほとんどの者が、東大やら京大やら大阪大などの一流大学に進みました。
今は、それぞれの場所で、社会の中堅として活躍しているはずです。
また集まって、サッカーやりたいなあ。
at 01:38|Permalink│
2009年01月13日
ツレ4連戦
先週は大変な一週間でした。
7日の国立能楽堂定例公演と11日の九皐会定例会で、「草子洗小町」が続けて出て、私は両方ツレのお役を頂戴いたしました。
申合を含めると、6日間で4回ツレをさせて頂きました。
「草子洗小町」のツレは、一時間座りっぱなしという大変な役です。
舞台上で立ち役は片膝立てて座ります。
一見ラクそうな座り方ですが、左膝を立てている場合、右膝に全体重が乗っかるので、とっても足が痛い座り方です。
しかも「草子洗小町」の場合、男ツレは一度座ったら立ったり向きを変えたりということが全く無く、女ツレも一度あるだけです。
ひたすら、痛みに耐えて座っているだけ。
いや、痛いのでしたら歯を食いしばってガマンすれば良いのですが、能という演劇のツラいところは、緞帳がないということです。
終わったら何ごとも無かったかのごとく立ち上がって、幕に退かなければならないのです。
これは、痛いのをガマンすれば良いという問題ではありません。
皆さんの中に、長い時間正座をしているうちに、足が痺れて立てなくなった経験のある人、いませんか?
能楽師にはそんなこと許されません。
足が痛かろうが痺れようが、何ごとも無かったように立ち上がる。
全く、厳しい芸能です。
この4日間、なんとか立ち上がることが出来ました。
周りの人からも、4日間座り続け、またなんとか立ち上がって幕に退いていったことに、密かな賛辞を受けました。
しかし……
終演後、立ち上がって歩くことが、これほど注目を浴びる演劇って、能の他には無いでしょうね。
7日の国立能楽堂定例公演と11日の九皐会定例会で、「草子洗小町」が続けて出て、私は両方ツレのお役を頂戴いたしました。
申合を含めると、6日間で4回ツレをさせて頂きました。
「草子洗小町」のツレは、一時間座りっぱなしという大変な役です。
舞台上で立ち役は片膝立てて座ります。
一見ラクそうな座り方ですが、左膝を立てている場合、右膝に全体重が乗っかるので、とっても足が痛い座り方です。
しかも「草子洗小町」の場合、男ツレは一度座ったら立ったり向きを変えたりということが全く無く、女ツレも一度あるだけです。
ひたすら、痛みに耐えて座っているだけ。
いや、痛いのでしたら歯を食いしばってガマンすれば良いのですが、能という演劇のツラいところは、緞帳がないということです。
終わったら何ごとも無かったかのごとく立ち上がって、幕に退かなければならないのです。
これは、痛いのをガマンすれば良いという問題ではありません。
皆さんの中に、長い時間正座をしているうちに、足が痺れて立てなくなった経験のある人、いませんか?
能楽師にはそんなこと許されません。
足が痛かろうが痺れようが、何ごとも無かったように立ち上がる。
全く、厳しい芸能です。
この4日間、なんとか立ち上がることが出来ました。
周りの人からも、4日間座り続け、またなんとか立ち上がって幕に退いていったことに、密かな賛辞を受けました。
しかし……
終演後、立ち上がって歩くことが、これほど注目を浴びる演劇って、能の他には無いでしょうね。
at 22:37|Permalink│
2009年01月05日
お稽古初め
今日は、世間的には仕事初め。
私もお稽古初め。今日の深川のお稽古から今年のお仕事がスタートです。
今年の正月は、規則正しく暮らしました。
だいたい、いつもの正月は朝から飲んだくれて、不摂生を絵に描いたような生活をしているのですが、今年は朝からお酒を飲んだのは元旦だけ。それもほんの少しだけです。
何故、そんなことが可能だったのでしょう。
まず、4月の「道成寺」に向けて集中して稽古したかったからです。
そして、こちらの方が大きい理由かも知れませんが、1月7日の国立能楽堂の定例公演と11日の九皐会で、「草子洗小町」が連続してでますが、私はそのどちらもツレのお役を頂戴いたしました。
申し合わせを合わせると、週に4回もツレをいたします。
「草子洗小町」のツレは、1時間ほど座りっぱなしという大変な役です。
正月にブクブク太ってしまっては、とても座り通せません。
かくして、とても節制した正月となりました。
まあ、たまにはこんな正月も良いかな。
私もお稽古初め。今日の深川のお稽古から今年のお仕事がスタートです。
今年の正月は、規則正しく暮らしました。
だいたい、いつもの正月は朝から飲んだくれて、不摂生を絵に描いたような生活をしているのですが、今年は朝からお酒を飲んだのは元旦だけ。それもほんの少しだけです。
何故、そんなことが可能だったのでしょう。
まず、4月の「道成寺」に向けて集中して稽古したかったからです。
そして、こちらの方が大きい理由かも知れませんが、1月7日の国立能楽堂の定例公演と11日の九皐会で、「草子洗小町」が連続してでますが、私はそのどちらもツレのお役を頂戴いたしました。
申し合わせを合わせると、週に4回もツレをいたします。
「草子洗小町」のツレは、1時間ほど座りっぱなしという大変な役です。
正月にブクブク太ってしまっては、とても座り通せません。
かくして、とても節制した正月となりました。
まあ、たまにはこんな正月も良いかな。
at 23:26|Permalink│
2009年01月03日
深川能舞台 謡い初め
今日は、「深川能舞台 謡い初め」です。
そう言うと、大げさですが、ご近所の方をご招待しておめでたい謡いと舞を披露しただけです。
私がここに引っ越してお世話になってきた近所の方々に、自宅と舞台を披露する良い機会かと思いまして、こういった催しを企画してみました。
普段は路地で、寝間着同然の格好で挨拶をし合う仲ですが、今日は皆かしこまった格好でいらっしゃいました。
普段着しか知らない私は、皆さんの改まった格好に面食らいました。
皆さん、とても素敵な装いです。
やはり、気さくな下町の人々といっても、東京の人間ですね。私の田舎(広島)と違ってやはり洗練されているなあと実感しました。
かくいう私も、紋付と裃で応対。
野良猫が闊歩するいつもの下町の路地が、今日は鹿鳴館もびっくりの社交場に早変わり。
なかなか、良い雰囲気でした。
ご近所の方にも喜んでいただきました。
またやりたいなと思います。
深川に引っ越してはや9ヶ月。
私はこの町に育てられました。
この町に、少しでも貢献したいなあと思います。
その思いで、年末は町内の夜警に参加しました。
拍子木を鳴らしながら
「火の用心」
と叫びまわりました。
とは言っても夜警をしている時間はほんの少し。あとは夜通し飲んでいます。
そんな大騒ぎが、年末一週間続きます。
年末は、火の用心にかけつけて、毎晩大宴会が行われるこの町が、私は大好きです。
そう言うと、大げさですが、ご近所の方をご招待しておめでたい謡いと舞を披露しただけです。
私がここに引っ越してお世話になってきた近所の方々に、自宅と舞台を披露する良い機会かと思いまして、こういった催しを企画してみました。
普段は路地で、寝間着同然の格好で挨拶をし合う仲ですが、今日は皆かしこまった格好でいらっしゃいました。
普段着しか知らない私は、皆さんの改まった格好に面食らいました。
皆さん、とても素敵な装いです。
やはり、気さくな下町の人々といっても、東京の人間ですね。私の田舎(広島)と違ってやはり洗練されているなあと実感しました。
かくいう私も、紋付と裃で応対。
野良猫が闊歩するいつもの下町の路地が、今日は鹿鳴館もびっくりの社交場に早変わり。
なかなか、良い雰囲気でした。
ご近所の方にも喜んでいただきました。
またやりたいなと思います。
深川に引っ越してはや9ヶ月。
私はこの町に育てられました。
この町に、少しでも貢献したいなあと思います。
その思いで、年末は町内の夜警に参加しました。
拍子木を鳴らしながら
「火の用心」
と叫びまわりました。
とは言っても夜警をしている時間はほんの少し。あとは夜通し飲んでいます。
そんな大騒ぎが、年末一週間続きます。
年末は、火の用心にかけつけて、毎晩大宴会が行われるこの町が、私は大好きです。
at 23:53|Permalink│
2009年01月01日
謹賀新年
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。
今年は、自分の居を構えたので、生まれて初めて正月飾りというものをしてみました。
矢来能楽堂では毎年やっているので、勝手は分かります。
我が深川能舞台も、正しく正月という飾りをほどこしました。
玄関には、写真の通りお約束の門松。
高さは1メートル位ある特大サイズです。
普通の家庭はまず買わない業務用サイズですね。
これが、能舞台の玄関の左右にあります。
なかなか立派です。
また、舞台の脇には、鏡餅を飾りました。
載せてある三方は、この正月に向けて新調しました。
普通の店では売っていない、一辺が一尺(約30センチ)の特大サイズです。
富岡八幡宮に紹介された店で、ウン万円で購入しました。
もう一つ小ぶりの物を近所のホームセンターで買いましたが、並べると違いは歴然としています。
木の質が全く違います。
特大三方を気を良くした私は、調子に乗って、同じ店で徳利とカワラケと火打ち石まで揃えてしまいました。
今日は、当然のように富岡八幡宮へ初詣です。
スゴイ行列の中、八幡さまの守り神「白羽の矢」も買いました。
能「弓八幡」の男山八幡や能「木曾」の埴生八幡でも、矢がお守りとして登場しますが、矢を神体と崇めた元祖がこの富岡八幡宮だそうです。(今日、富岡八幡宮の看板にそう書いてあった)
これは神体なので写真はとりません。
なんか、神々しい気分で新年を迎えました。
at 22:18|Permalink│